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第4回 プランク時代 ── 物理法則が崩れる世界

目次

オープニング

前回私たちは、宇宙の始まりにある「特異点」という、理論が壊れてしまう場所まで、たどり着きました。そして、その謎を本当に解き明かすには、「量子重力理論」という、まだ完成していない理論が必要だ、というところで、話を終えました。今回は、いよいよ、その未完成の理論が挑もうとしている、宇宙の、いちばん最初の一瞬に、足を踏み入れていきます。

その一瞬の名前は、「プランク時代」。宇宙が誕生してから、わずか、10のマイナス43乗秒までの、ほんのひとときを指す言葉です。10のマイナス43乗秒。小数点の後に、ゼロが42個も並んで、ようやく1が現れる。そんな、想像することすら難しい、短い、短い時間です。

この時代は、物理学における、最後の秘境と呼ばれています。なぜなら、この時代には、私たちが知っている、どんな物理法則も、そのままでは通用しないからです。今日は、その「法則が崩れる世界」が、いったいどんな場所なのか。そして、そこに挑む科学者たちが、何を考えているのかを、ご一緒に、のぞいていきましょう。

はじめに、正直にお伝えしておきます。今回のテーマは、この宇宙史シリーズの中でも、とりわけ「まだ分かっていないこと」の多い回です。けれど、前回もお話ししたように、それは、がっかりする話ではありません。むしろ、人類の知性が、いま、まさに、その最前線で、格闘している現場に、立ち会うということ。その、ひりひりするような面白さを、味わっていただけたら、と思います。 この回は、いわば、これまでの三回の、総仕上げでもあります。第一回で、138億年の全体像を眺め、第二回で、ビッグバンが空間の膨張であることを知り、第三回で、その始まりにある特異点の謎に、触れました。そして今回、その特異点の、すぐ手前——物理学が語れる、いちばん最初の足場に、ようやく立とうとしているのです。ここを越えれば、次回からは、いよいよ、宇宙が具体的な姿を、形づくっていく物語が、始まります。

「10のマイナス43乗秒」とは、どれほどの一瞬か

まず、この「10のマイナス43乗秒」という時間が、どれほど短いのか、少しでも感じていただきたいと思います。とはいえ、これは、あまりにも短すぎて、日常のどんなものにも、たとえようがありません。

たとえば、私たちが「一瞬」と呼ぶ、まばたき。あれは、だいたい0.1秒くらいです。では、その一回のまばたきの中に、プランク時代は、いくつ入るでしょうか。答えは、1のあとに、ゼロが42個も並ぶ、という、途方もない数です。逆に言えば、まばたき一回の間に、プランク時代が、それこそ天文学的な回数、繰り返されている、ということになります。

別のたとえも、してみましょう。宇宙が生まれてから今日まで、138億年が経ちました。この138億年を、秒に直しても、だいたい10の17乗秒ほど。ところが、プランク時代の短さは、10のマイナス43乗秒。この二つの「桁の開き」は、あまりにも大きくて、もはや、私たちの直感では、まったく追いつきません。宇宙のすべての時間と、宇宙の最初のひと呼吸。その両端に、私たちは、これから目を向けようとしているのです。 もう一つ、別の角度から、たとえてみましょう。もし、たった1秒を、宇宙の年齢である138億年にまで、ぐうっと引き伸ばせたとします。それでも、その中に占めるプランク時代の短さは、まだ、想像もつかないほど、わずかなままなのです。それほどまでに、この一瞬は、けた外れに短い。私たちが『一瞬』という言葉で思い描くものは、この時代の前では、永遠にも等しい長さなのです。

プランクという「自然の最小単位」

「10のマイナス43乗秒」という、この、いかにも中途半端に見える数字は、いったい、どこから出てきたのでしょうか。実は、これは、でたらめに決めた数字ではありません。自然界に、もともと備わっている、いくつかの基本的な定数だけを組み合わせて、導き出された、特別な時間なのです。

19世紀から20世紀にかけて活躍した、ドイツの物理学者、マックス・プランク。彼は、光の速さ、重力の強さ、そして、ミクロの世界を支配する「量子」の大きさ。この、宇宙の根本にかかわる三つの数を、うまく組み合わせると、時間や、長さや、温度の、いわば「自然が決めた、いちばん基本の目盛り」が作れることに、気づきました。

そうして導かれた、時間の目盛りが「プランク時間」、およそ、10のマイナス44乗秒。長さの目盛りが「プランク長」、およそ、10のマイナス35乗メートル。これは、原子核よりも、さらに、けた違いに小さい長さです。そして、温度の目盛りが「プランク温度」、およそ、10の32乗ケルビンという、想像を絶する高温です。

面白いのは、これらの目盛りが、人間の都合とは、まったく関係なく、自然そのものの性質だけから、決まっている、という点です。もし、遠い宇宙の、別の知的生命と、時間や長さの単位を、すり合わせることになったとしても、この「プランク単位」なら、たがいに通じ合えるかもしれない。それくらい、宇宙にとって、根源的な目盛りなのです。 中でも、プランク長の小ささは、群を抜いています。原子は、すでに、目に見えないほど小さいものですが、その中心にある原子核は、原子よりも、さらに一万倍以上も、小さい。ところが、プランク長は、その原子核と比べてさえ、想像を絶するほど、小さいのです。もし、たった一個の原子を、地球ほどの大きさにまで拡大したとしても、プランク長は、まだ、ほんの小さな点にも、満たない。それが、自然界の、いちばん細かい目盛りの大きさなのです。

プランクの壁 ── ここから先が見えない

なぜ、このプランク時間や、プランク長が、そんなに大切なのでしょうか。それは、これらが、私たちの物理学が、意味を持って語れる「限界の目盛り」だと、考えられているからです。

プランク長よりも、さらに短い長さ。プランク時間よりも、さらに短い時間。この領域に入ると、私たちの知っている、時間や空間という概念そのものが、もはや、はっきりした意味を持たなくなる、と考えられています。ここから先は、いわば「プランクの壁」。今の物理学の言葉では、その向こう側を、正しく描くことが、できないのです。

前回お話しした「特異点」は、この壁の、さらに、ずっと奥にあります。ですから、私たちが、宇宙の始まりを語るとき、本当に「見える」ぎりぎりの場所は、特異点そのものではなく、この「プランク時代」の入り口まで、ということになります。宇宙誕生から、10のマイナス43乗秒。そこが、現在の物理学にとっての、いちばん最初の「足場」なのです。 これは、けっして、私たちの観測技術が、まだ未熟だから見えない、という話では、ありません。どんなに立派な望遠鏡や、顕微鏡を作ったとしても、この壁の向こうは、原理的に、見通せないと考えられているのです。時間と空間という、ものさしそのものが、意味を失う場所。そこでは、『見る』という行為さえ、成り立たなくなってしまう。プランクの壁とは、技術の限界ではなく、私たちの知識の、いちばん根源にある限界なのです。

なぜ、物理法則は崩れてしまうのか

では、なぜ、この時代には、物理法則が「崩れる」のでしょうか。その理由を理解するために、少しだけ、現代物理学の、二本の大黒柱について、お話しさせてください。

20世紀の物理学は、二つの、とてつもなく強力な理論を、手にしました。一つは、アインシュタインの「一般相対性理論」。これは、重力と、宇宙のような、とても「大きな世界」の、ふるまいを見事に説明します。星や、銀河や、宇宙全体の膨張。そうした、雄大な現象を扱うのは、この理論の、得意分野です。

もう一つは、「量子力学」。こちらは、原子や、電子や、素粒子といった、とても「小さな世界」の、ふるまいを説明します。ミクロの世界の、不思議で、確率的な現象を扱うのは、この理論の独壇場です。この二つは、それぞれの持ち場では、これ以上ないほど、正確に、現実を言い当ててきました。現代の科学技術は、そのほとんどが、この二つの理論の上に、成り立っていると言っても、過言ではありません。 少し、補足しておきましょう。一般相対性理論は、たとえば、ブラックホールの存在や、重力によって光が曲がることを、みごとに予言し、そのどれもが、後の観測で、確かめられました。一方の量子力学は、半導体や、レーザーといった、現代のあらゆる電子機器の、土台になっています。つまり、この二つは、机上の空論などではなく、これ以上ないほど、現実によって裏づけられた、本物の理論なのです。だからこそ、その二つが、正面からぶつかって破綻する、というのは、物理学者にとって、見過ごすことのできない、深刻な事件なのです。

二つの巨人が、両立しない

ところが、ここに、大きな問題があります。この、二つの偉大な理論は、それぞれの持ち場では完璧なのに、いざ、両方を同時に使わなければならない場面になると、とたんに、けんかを始めてしまうのです。計算をすると、意味をなさない「無限大」が、あちこちに現れて、答えが、めちゃくちゃになってしまう。

ふだんは、この「けんか」は、表面化しません。なぜなら、重力が問題になるのは、たいてい、星や銀河のような「大きくて重いもの」。量子の効果が問題になるのは、たいてい、素粒子のような「小さくて軽いもの」。この二つは、ふつう、別々の舞台で活躍していて、同じ場所で、正面からぶつかることが、ないからです。

ところが、プランク時代は、違います。宇宙のすべてが、プランク長という、とてつもなく小さな領域に、押し込められている。つまり、「宇宙全体ほどの、莫大なエネルギー」が、「素粒子よりも小さな空間」に、閉じ込められている。ここでは、「大きな世界の理論」である重力と、「小さな世界の理論」である量子力学が、どうしても、同じ土俵で、正面からぶつかり合わざるを、えません。そして、その瞬間、両者は破綻し、私たちの計算は、意味を失ってしまうのです。これが、「物理法則が崩れる」ということの、正体です。 少しだけ、なぜ「無限大」が現れてしまうのか、イメージしてみましょう。量子の世界では、何もないように見える空間も、ごく短い時間なら、たえず、こまかく、ゆらいでいます。ふだんは、それでも、かまいません。ところが、重力までもが、そのゆらぎに巻き込まれると、空間そのものが、あまりに細かく、はげしく波打ってしまう。すると、計算のあちこちで、量が、抑えのきかないまま、無限大へと、膨れ上がってしまうのです。二つの理論は、たがいの前提を、根っこのところで、認め合えない。だからこそ、同じ場所で出会うと、破綻してしまうのです。

求められる「量子重力理論」という宿題

では、どうすればいいのか。答えは、はっきりしています。重力と、量子力学とを、けんかさせずに、一つの、より大きな理論の中に、うまくまとめ上げること。この、まだ見ぬ理論こそが、前回もお話しした「量子重力理論」です。

これは、いわば、アインシュタインの世界と、量子の世界を、仲直りさせる、統一の理論です。もし、これが完成すれば、私たちは、ついに、プランクの壁を越えて、宇宙の、いちばん最初の一瞬を、そして、あの特異点の正体を、正しく語れるようになるかもしれません。だからこそ、量子重力理論は、しばしば「物理学、最後の大問題」の一つ、とも呼ばれています。

アインシュタインは、その晩年、重力と、ほかの力とを、一つにまとめる「統一理論」の完成を夢見て、その探究に、人生の最後の時間を、ささげました。彼自身は、その夢を果たせませんでした。けれど、その志は、今も、世界中の物理学者たちに、しっかりと受け継がれているのです。 そして、この宿題が解けたとき、私たちが手にするのは、単に、宇宙の始まりの説明だけでは、ないかもしれません。重力と量子が、正面から出会う場所は、実は、ブラックホールの中心にも、あります。量子重力理論は、宇宙の始まりと、ブラックホールの奥という、二つの究極の謎を、同時に照らし出す、鍵になるかもしれないのです。一つの理論が、宇宙の、もっとも深い二つの闇を、まとめて解き明かす——それは、物理学者にとって、これ以上ない、魅力的な夢なのです。

挑戦者たち ── 超ひも理論とループ量子重力

この、とてつもなく難しい宿題に、今、いくつかの、有力な挑戦者が、名乗りを上げています。ここでは、代表的な、二つのアイデアを紹介しましょう。どちらも、まだ完成した理論ではありませんが、その発想の大胆さは、知っておく価値があります。

一つ目は、「超ひも理論」、あるいは「超弦理論」と呼ばれる考え方です。これは、この世界を作っている、いちばん基本的な部品は、点のような粒ではなく、極めて小さな「ひもの振動」だ、という発想です。バイオリンの弦が、震え方によって、いろいろな音を奏でるように、この宇宙のひもも、その震え方の違いによって、電子になったり、光になったりする、というのです。この理論は、面白いことに、私たちの知る三次元に加えて、さらに、目に見えない、余分な次元が、いくつも必要になる、とも予言します。

二つ目は、「ループ量子重力理論」という考え方です。こちらは、なめらかに続いていると思われている空間そのものが、実は、これ以上は分けられない、極めて小さな「つぶつぶ」の、網の目のような構造で、できているのではないか、という発想です。もし、これが正しければ、空間には「最小の単位」があり、プランク長よりも小さな空間というものは、そもそも、存在しないことになります。それは、時間や空間についての、私たちの常識を、根っこから、書き換えてしまう考え方です。 ここで、正直に、お断りしておかなければなりません。これらの理論は、どれも、まだ「候補」の段階であって、正しいと証明されたものは、一つも、ありません。しかも、その多くは、実験で直接確かめるには、あまりにも高いエネルギーを、必要とします。それでも、世界中の物理学者が、これらの難解な理論に、人生をかけて挑み続けているのは、その先に、『宇宙の設計図の、いちばん奥のページ』が、見えるかもしれないからです。

ひとつだった「四つの力」

プランク時代を語るとき、ぜひ紹介したい、美しい考え方があります。それは、「力の統一」という物語です。今の宇宙には、大きく分けて、四つの基本的な力があると、考えられています。物を引き合わせる「重力」。電気や磁気のもとになる「電磁気力」。そして、原子核の中で働く、二種類の力、「強い力」と「弱い力」です。

この四つは、今でこそ、まったく別の力に見えます。ところが、宇宙が、うんと高温だった、生まれたばかりの頃には、これらの力は、区別がつかず、もともとは、たった一つの力として、溶け合っていたのではないか、と考えられているのです。そして、宇宙が冷えていくにつれて、その一つの力が、順番に、枝分かれしていった、というのです。

水を思い浮かべると、少し似ています。高い温度では、水はばらばらの水蒸気ですが、冷えると、水になり、さらに冷えると、氷という、はっきりした形になります。同じように、灼熱の宇宙で、一つに溶け合っていた力が、宇宙が冷えるにつれて、重力、電磁気力、と、次々に姿を分けていった。そして、その、四つの力が、まだ一つだった、いちばん最初の瞬間こそが、このプランク時代だと、考えられているのです。バラバラに見える世界の奥に、たった一つの根っこがあるかもしれない——それは、物理学者たちを、長く惹きつけてきた、大きな夢なのです。 そして、この「力の統一」は、まったくの夢物語では、ありません。四つの力のうち、「電磁気力」と「弱い力」は、もともと一つだった、ということが、すでに実験で確かめられ、その発見には、ノーベル賞も、贈られています。二つの力が、高いエネルギーでは、一つに戻る——それが、現実に、確認できたのです。ならば、残りの力も、さらにさかのぼれば、一つに溶け合っていたのではないか。プランク時代に、四つの力がすべて一つだった、という考えは、この、確かな一歩の、延長線上にあるのです。

どうやって、確かめるのか

ここで、当然の疑問がわいてきます。「そんな、10のマイナス43乗秒なんていう、とんでもない世界を、いったい、どうやって確かめるのか」と。おっしゃるとおり、これは、途方もなく難しい問題です。

このプランク時代のエネルギーを、実験室で、そのまま再現しようとすると、途方もなく巨大な装置が必要になります。ある試算では、その大きさは、銀河ほどにもなる、とすら言われます。ですから、地上の実験で、この時代を、直接のぞき見ることは、現実的には、できません。

そこで、科学者たちが期待をかけているのが、宇宙そのものを、巨大な実験室として使う、という方法です。プランク時代の、はげしい出来事は、そのかすかな痕跡を、今の宇宙のどこかに、残しているかもしれません。たとえば、次回お話しする「宇宙の急膨張」がつくり出したと考えられる、ごくかすかな「時空のさざ波」——「原始重力波」と呼ばれるものを、精密にとらえることができれば、それは、宇宙の、いちばん最初の一瞬をのぞく「窓」に、なるかもしれないのです。宇宙の最古の記憶を、宇宙自身の中に探す。それが、今の、最先端の挑戦です。 ほかにも、手がかりは、あるかもしれません。たとえば、ごく初期の宇宙で、力が枝分かれしたときの名残りや、まだ見つかっていない、未知の粒子。あるいは、巨大な加速器で、少しでも高いエネルギーの世界を、のぞいてみること。どれも、プランク時代そのものには、まだ遠く及びませんが、その方向へ、一歩ずつ、着実に、近づこうとしています。宇宙のいちばん最初へ向かう道は、決して、一本では、ないのです。

分からない、を面白がる

ここまで聞いて、「結局、はっきり分かっていることは、少ないんだな」と、感じられたかもしれません。そのとおりです。プランク時代は、現代物理学にとって、まだ、ほとんど手の届いていない、最後のフロンティアなのです。

けれど、少しだけ、想像してみてください。今、私たちが、当たり前のように使っているスマートフォンも、GPSも、ほんの100年前の人々にとっては、まさに、原理も分からない、魔法のような存在でした。その多くは、当時「まだ分からない」とされていた、量子力学や、相対性理論の研究から、生まれてきたものです。今日の「分からない」は、明日の、当たり前の技術の、種かもしれない。プランク時代の探究も、いつか、私たちの世界を、大きく変える発見に、つながるかもしれないのです。

実際、科学の歴史をふり返ると、『何の役に立つのか分からない』とされた基礎研究が、何十年もたってから、世界を一変させた例は、いくらでも、あります。電気も、電波も、はじまりは、ただの不思議な現象への、純粋な好奇心でした。プランク時代の探究も、今は、雲をつかむような話に思えても、遠い未来の人々にとっては、当たり前の知識の、出発点になっているかもしれないのです。 そして、たとえ、すぐには役に立たなくても、私は、こう思います。「宇宙の、いちばん最初の一瞬に、いったい何が起きていたのか」。この問いに、真剣に挑もうとすること自体が、人類という存在の、いちばん誇らしい部分の一つなのではないか、と。答えのない問いを前にして、それでも、あきらめずに考え続ける。その姿こそ、私が、このシリーズを通じて、いちばんお伝えしたいものなのです。

法則が崩れる場所に、立ってみる

少しだけ、想像の翼を広げてみましょう。プランク時代の宇宙。そこには、まだ、はっきりとした「空間」も、「時間」も、私たちが知る形では、存在していなかったかもしれません。何が「前」で、何が「後」なのかさえ、あいまいで、時間と空間が、ぐつぐつと煮え立つように、絶えず、ゆらいでいる。そんな世界だったと、考えられています。

想像してみてください。『距離』という言葉が、まだ意味を持たない世界。二つの点が、近いのか、遠いのかさえ、決まっていない。『順番』という言葉も、まだ、あいまいで、どちらが先に起きたのか、はっきりしない。私たちの言葉も、直感も、そこでは、ほとんど役に立ちません。それでも、数式という道具だけは、かろうじて、その入り口まで、私たちを、連れて行ってくれる。人間の言葉が届かない場所を、数学が指し示す——そこに、物理学という営みの、静かな凄みが、あるのです。

私たちが、当たり前だと思っている、「ここ」と「あそこ」の違い。「今」と「さっき」の違い。そうした、世界の、いちばん基本的な枠組みそのものが、まだ、生まれきっていない。プランク時代とは、宇宙が、これから「時間と空間を持つ世界」に、なっていく、その、まさに、生まれる瞬間の、産声のような時代なのかもしれません。 法則が崩れる、というと、なんだか、こわい話のように聞こえます。けれど、見方を変えれば、それは、私たちが知っている法則が、まだ「生まれる前」の姿だ、ということです。混沌の中から、やがて、秩序が立ち上がってくる。そのいちばん最初の一瞬に、目をこらす。それが、プランク時代を見つめる、ということなのです。

この一瞬が、すべての始まりだった

このあまりにも短い、10のマイナス43乗秒。それは、私たちには、無に等しいほど、短い時間に思えます。けれど、この一瞬を抜けた、その先で、宇宙は、いよいよ、劇的な変化を始めます。次回お話しする「インフレーション」という、爆発的な急膨張。そして、素粒子が生まれ、原子核ができ、やがて、星や、銀河や、私たち生命へと、つながっていく、壮大な物語が、ここから、始まるのです。 考えてみれば、今、あなたの体を作っている原子も、あなたが見上げる星々も、そのすべての「大もと」が、このプランク時代の、ほんの一瞬に、詰まっていました。すべての物質、すべてのエネルギー、そして、これから生まれる、すべての秩序の、種。それが、宇宙誕生から、わずか10のマイナス43乗秒の、この、目もくらむような一瞬に、確かに、存在していたのです。宇宙で、いちばん小さく、いちばん短い、この時代。けれど、そこには、これから続く、138億年の、すべての可能性が、宿っていたのです。

まとめ

今回のポイントを、振り返りましょう。ひとつ、宇宙誕生から、10のマイナス43乗秒までを「プランク時代」と呼び、それは、自然界の基本定数から導かれる、特別な時間である。ふたつ、この時代には、「大きな世界の理論」である一般相対性理論と、「小さな世界の理論」である量子力学とが、正面からぶつかり合い、私たちの知る物理法則が、崩れてしまう。 みっつ、その謎を解くには、両者を統一する「量子重力理論」が必要で、超ひも理論や、ループ量子重力といった、大胆な挑戦が、今も続いている。この時代は、四つの力が、まだ一つに溶け合っていた、宇宙のいちばん最初の瞬間であり、現代物理学に残された、最後のフロンティアなのです。分からないことだらけの、この時代にこそ、私は、宇宙の、いちばん深い秘密が、隠されているような気がしてなりません。

次回予告

さて、法則が崩れる混沌としたプランク時代を抜けたその直後。宇宙は、私たちの想像をはるかに超えるとんでもない出来事を起こします。ほんの一瞬——それこそ10のマイナス34乗秒ほどの間に、宇宙はなんと10の何十乗倍というけた違いの大きさへと爆発的に膨れ上がったというのです。この常識はずれの急膨張は「インフレーション」と呼ばれています。そして、このたった一度の急膨張こそが、夜空に星がちりばめられ、やがて、私たちが生まれてくることの大もとになったと考えられているのです。次回、『インフレーション ── 宇宙の急膨張』。あなたと星々の意外な起源に迫ります。どうぞお楽しみに。

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この記事を書いた人

宇宙の「なぜ」を解明できないか日々真実を探し求め、新しい発見にワクワクしている。

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